Traduction

Bienvenue au laboratoire Yuzaki
  • Le laboratoire Yuzuzaki est un centre de recherche pour la biologie humaine - Microbiote - Recherche informatique quantique (Université Keio)WPI-BIO2Q) a été déplacé vers
  • Se concentrant sur les mécanismes de formation synaptique dans le système nerveux central, le système nerveux périphérique, le système nerveux autonome et le système nerveux entérique、Nous visons à clarifier le lien entre le système nerveux et plusieurs organes, et la pathologie provoquée par son échec, et à développer des méthodes de traitement.
Nouvelles passées
Journal
Recrutement!
Nous sommes impatients de participer aux gens ambitieux。Nous développerons activement de jeunes chercheurs qui seront responsables de la science fondamentale à l'avenir。
   Le cours de maîtrise à la faculté de médecineIci
   Cours de doctorat à la Faculté de médecineIci
   Les coordonnées sontIci

Essai à vos juniors

a_title1

 

a_title4

a_title2

 

 

 

 

a_title3

   
  ●略歴

1985   自治医科大学医学部卒業後大阪府立病院(現・大阪府立急性期・総合医療センター)にて研修
1987 大阪府吹田保健所
1992 日本学術振興会特別研究員
1993 自治医科大学大学院博士課程修了米国ロシュ分子生物学研究所留学
1995 米国セントジュード小児研究病院発達神経生物学部門Assistant Professor
2002 同部門Associate Professor
2003 慶應義塾大学医学部生理学教室教授
 

 

 

私たちはいま人間が人間であるゆえんである高次精神現象とりわけ記憶・学習課程の解明を目指して日々研究に取り組んでいます幸いなことに幾つかの成果を上げることができましたがそれは私自身がこれまでに置かれたさまざまな環境において常にベストを尽くそうと努めてきたことが大きな理由の一つだと考えています

学部生のころから研究室に

私は高校1年のときにB型肝炎を患って入退院を繰り返し入院期間が延べ9カ月にも及んだために留年を余儀なくされました入院中は1日2回の点滴を受ける以外はただベッドに横たわっているだけでした
そんな折心療内科医として著名な元九州大学教授の池見酉次郎先生の本を読みました私と同様に入退院を繰り返す人々を見るにつけ確かに人間は心身一如の存在であり心にもアプローチしない限り本当に治療したことにはならないと思い心療内科医になりたいと痛切に望むようになりました
自治医科大学に進んだ最大の理由は最終的に心療内科を志すにしてもまずは日常臨床の第一線に行きさまざまな疾患に対する臨床経験を積みたいと考えたからです大学でカウンセリングや心身医学の勉強を進めるにつれ脳をブラックボックスとして扱うのでなくもっと精神活動の実態を理解したいと考えるようになり、3年の時から生理学教室に出入りし電気生理学を学び始めました自治医科大学の場合卒業後の9年間出身都道府県のへき地離島での診療義務がありますので特に基礎系の研究室は教室員が少なく大切に面倒をみていただきました
卒業後大阪府立病院(現・大阪府急性期・総合医療センター)にて内科系研修後に吹田保健所に勤務することになりましたこれは私の出身地である大阪府ではへき地や離島はないため内科系の者は公衆衛生分野に進むよう指示されたからです

  ちょうど大阪府では保健所単位で難病の患者会を設立するという事業に取り組み始めたころでした私も保健師と一緒に自転車で患者さんのお宅を訪ねたり相談を受けたり月1回勉強や親睦のための会を催したりといった仕事を一所懸命にやりました一人ひとりでは耐え難いことでも患者会で相談したりお互いに励まし合ったり情報交換をしたりすることで心の支えとなるのです実に素晴らしい“力学”が働くものだなあと実感しやりがいも感じていました
その一方直接診療に携わっているわけではなかったのである種の限界を感じてもいたのですそんな時自治医科大学から戻って来ないかというお誘いをいただいたので生化学教室の大学院生としてお世話になることにしましたその際患者会の皆さんに送別会を開いていただいたのは良い思い出ですa_p2a_p1

他人の1マイル先まで

生化学教室の香川靖雄教授の下ではミトコンドリア脳筋症の研究をしましたその後香川先生の勧めもあり大阪大学蛋白質研究所の御子柴克彦教授のところに国内留学させていただくことになりました御子柴研では神経細胞内のCaストアの制御機構を解明する仕事に取り組みましたが次第に海外に留学して自分を試してみたいという気持ちを抑え難くなりました
神経細胞では樹状突起の先端部にある神経棘が記憶形成に重要な役割を果たします当時世界に先駆けて神経棘におけるCaイメージングに成功したJohn A. Connor先生の研究室に手紙を書きました幸いにもHuman Frontier Science Programの奨学金をいただけることとなり家内と2歳、4歳の子供と一緒に米国ニュージャージー州に留学することになりました

  当時の住居は狭くまた階下に気を遣って走り回る子供を叱ったり厳寒の中でも10分ほどかけてコインランドリーまで行ったりするなど妻には相当きつい生活だったようです
私自身も研究において最初の1年余りはめぼしい成果が挙げられず研究に向いていないのではないかと悩みました同僚の米国人研究者は定時に帰っていくのに論文が掲載されていくのをみて焦るばかりでした
あるとき米国で成功した移民の方がラジオで「私はいつも他人より1マイル余分に行く(Go an extra mile)ように努めた」と話しているのを聞きました他人の2倍働き続けるのは無理でも、1マイルならできると思い吹っ切れました米国で外国人である私たちが認められるには米国人より努力するのは当然のことでしょう

真理の大海を前にして

2年間の予定だった留学生活が終わるとき共同研究をしていたTom Curran先生からセントジュード小児研究病院に新設される神経生物学部門にAssistant Professorとして来ないかと誘われましたこの病院はテネシー州にある全米で最大の小児白血病専門研究施設で今後神経系難病に重点を置くために当部門が新設され彼が部門長として赴任するとのことでした数カ月後期待と不安と責任感を抱えながらニュージャージー州からテネシー州まで小さな車に一家4人を乗せて雪の降る中を引っ越しました
Assistant Professorになると完全に独立した自分の研究室を持ち研究室のセットアップや人件費・研究費も保証されますこの開放感は素晴らしく今までやりたいと思っていた研究を次々と立ち上げました
mais、何事も甘い話ばかりではありませんほとんどの大学でもそうですがセントジュード小児研究病院ではAssistant Professorには3年ごとに適格審査があります審査基準はいろいろありますが少なくとも米国立衛生研究所(NIH)の研究費を取っていることが必須ですところがこの研究費の採択率が私の分野では当時10%弱であり駆け出しの研究者もベテラン研究者も区別なく審査されるという状況でした

  野心的なプロジェクトを含めて手を広げすぎたせいもあり最初の数年間は論文も出ないし研究費も獲得できずとても苦しい思いをしましたプロジェクトは始めることよりも撤退することの方が勇気と決断が必要なのです
神経細胞間の情報伝達の主役であるグルタミン酸受容体のうちδ2型の機能はよくわかっていません。mais、δ2型の突然変異を来すマウスでは小脳失調が発症します。nous、この変異がδ2型に及ぼす影響に焦点を絞った小さなプロジェクトに変更しました得られた実験結果を子細に検討していくといろいろと意外なことがわかり予期せぬ方向へ研究が発展しその成果をScienceやNature Neuroscienceなどの一流誌に報告しAssociate Professorに昇任しました
若い研究者の皆さんにはいろいろと現状に不満があってもまず与えられた環境の中でベストを尽くすことをお勧めしますそこから必ず道が開けてくると思いますまた大上段に振りかぶったプロジェクトでなくとも丁寧に実験を行い結果を虚心坦懐に観察することにより予期せぬ世界的に注目される研究成果が得られることもあります。nous、真理の大海を前にして浜辺で貝を拾って遊んでいる子供に過ぎないのです(談)